下界ではもうすぐ春の季節で気候が暖まり生命の息吹が聞こえてくるらしいが此処では何の関係もない。
「白雪があそこまで怒るなんて・・橙哉がバカやった時以来じゃない?」
事実、橙哉ほど白雪の怒りを誘い、且つそれに気づかず事を進める馬鹿はいない。
陽光射す神殿の大廊下から少し奥へ入った所、蔵書の立ち並ぶ書庫の中に一つの影があった。
「由羽!ここにいるの?」
扉の向こうから聞こえた声によって、今日の休みは終わりを告げようとしていた。
神殿の中央に位置する二階の大広間で、一人のかけらと三人の翼がテーブルを囲んで座っていた。
朱來はわかるけど・・あと二人の男の人は顔すら知らないのに・・・。
『ラピスラズリっていう石、知ってる?』
通された部屋で開口一番告げられたのは、そんな質問だった。
「そんなこと言ったって、見たことも聞いたことも無いような石のことで責められるわけないじゃない。
未だに状況が呑み込めない由羽は、二人の会話をよそに窓辺へと視線をめぐらした。
「白雪も少しぐらい情報を提供して欲しいわ。これじゃ全然・・・由羽、ちょっと聞いてもいい?」
意識が窓辺に向いていた由羽は慌てて朱來の声に耳を傾けた。
「私達今その・・ラピスラズリだっけ?とにかくその石を探してるんだけど、
いつにない朱來の真剣な声色に由羽は驚きながらも頷いた。
「色はさっき言った通り群青色で所々に金色の斑点が散らばっています。
言葉に詰まった由羽に気づいて朱來がどうしたのかと尋ねる。
「気にしなくていいのよ、本当に分からなかったから色が判明しただけでも進歩だから。
言われて思考を辿ってみれば、空に来てから見かけた覚えは無い。
「どうしてラピスラズリを・・?地上で拾ってきたんですか?」
必死に探すぐらいだから余程大事なものだったのだろうかと尋ねると、首を横に振られた。
「私達じゃないんだけどね、上司・・天使からそれを貰い受けた翼がいて。
こいつ、と言って指を差された深紅の瞳の男は、はぁ、と項垂れた。
「だからそんな覚えはねぇんだよ。俺は白雪とは職種も違うから接触もないしよ・・。」
自分はそんなものを知らないと何度もその相手に言ったが聞き入れてはくれなかったらしい。
「本当は私は関係なかったんだけどね。タイミング悪くその場に居合わせちゃったもんだから。」
恐怖の笑顔に負かされて、強制的に手伝う破目になったらしい。
「そいつは白雪を恐れない数少ない存在でね・・見つからなかった場合、盾にしようと思って。」
そんなこととは露知らず、穏やかに眠り続ける男に、由羽は少しだけ同情した。
「今の鳥・・あの鳥の色が≪群青色≫ってやつなの・・?」
半分眠たそうに頭を上げた男が、ポツリと呟いたからである。
「どうしたのよ由羽!確かにあの鳥は群青色だったけど・・っ」
同色の石には何の関係もないはずだと窓から身を乗出している由羽の肩を掴んだ。
「そういや昨日、白雪が大事な鳥が姿を消したって言ってたけど・・そうか、それだったのか」
一人納得をして再び眠ろうとした男は、しかし隣にいた男にそれを阻められた。
「寝るな橙哉!・・じゃあ白雪が俺に探せって言ってたのはあの鳥だってことか?」
体を揺さぶられて睡眠を妨害された橙哉は、うーん、などと言いながら頷いた。
「そうそう。青灯が昼間大洪水を起こした後に姿が見えなくなったからって・・文句言ってた」
上司から貰ったことに加え空では珍しい色なのだ、ただでは許すまいと憤っていたという。
「・・ならそれを早く言えよ・・。神殿中を探し回ったって石なんか無いはずだよな・・。」
はぁ、と脱力している青灯に朱來は怒声を浴びせた。
「そんなことより、鳥!広場の方に飛んでったから追いかけるわよっ!」
二人が話をしている間に鳥の捕獲道具を準備していたらしい朱來から網を手渡されながら、三人は部屋を後にした。
ちらりと女が視線を向ければ、男は恨めしそうに女の手の中の鳥を見た。
「普通に追いかけたって捕まえられねぇから網の中に誘い込んだんだ。
女は暫く考える風な顔をしていたが、やがてにっこりと笑うと青灯にタオルを差し出した。
「あなたも大分汚れていますから、これで拭いて下さいな。・・この子を見つけてくれてありがとう。」
朝からずっと張り付いていた怪しい笑顔は消えて、真に笑ったその顔に青灯は安堵した。
「あぁ。・・明日からは力の加減に気をつけるよ」
そう言って青灯が部屋を出た後、扉の向こうで瑠璃色の鳥が嬉しそうに鳴く声が聞こえた。
神殿の横に並ぶ棟の自室に青灯が入ると、椅子に寄りかかって本を読んでいる朱來がいた。
「それはそうと、今日はありがとな。あの子・・由羽にもお礼言っといてくれ」
ベッドに腰掛けながらそう言うと、相手はうん、と応えただけですぐに意識を本に向けた。
それはまだ、世界が今よりほんの少し平和だった頃の物語。
「・・で?今度は何したのよ、あんた」
「・・俺が知るか」
いや、むしろ大雪崩が今にも起きそうなほど凍てつく空気が周りを支配しているようだ。
青灯はその元凶である目の前の人物に目線を合わすが、相手は数分前と変わらず笑顔を浮かべているだけだった。
・・それはもう、怒りを抑える為に張り付けられただけの、笑顔とは言えない笑顔で。
こんな状態では仕事にも行けないと何度か話しかけてみたが返ってくるのは無言の笑顔だけ。
もうどうしようもないとこの場を立ち去りかけた時、もう一つの災難がやってきたおかげで、
結局自分はここへ留まる破目になった。
そのもう一つの災難―もとい、朱來は助け舟を出すでもなく自分の横で同じ様に立ち尽くしていた。
「・・俺は橙哉みたいに白雪がああなるまで気づかないほど馬鹿じゃない」
そしてその状態の白雪に近づける者、ましてや話しかけられる強者(つわもの)もいない。
神殿の脇では大樹がその身に蕾を付け、何羽かの鳥が木々の間を一休みしながら飛び交っている。
幸せそうに春の訪れを待っている彼らを傍目に見ながら、青灯は溜息をついた。
「ふぅ。とりあえずこれだけ出来ればいいかな?」
それは肩までかかった紫紺色の髪を揺らしながら、分厚い本を棚へと分類していく。
部屋の外では新たな春の息吹に囲まれた湖が、時折パシャパシャと音を立てていた。
普段から人通りの少ない部屋の周囲は静寂に包まれ、耳に心地良い風を送り込む。
もうすぐ春だなぁ、などと呑気なことを思いながら女は箱を片した。
極端に羽根の少ない女―かけらは、全ての箱を紐で括り、一休みとばかりに丸椅子に腰掛けた。
まだ昼を過ぎたばかりのこの時間、本来かけらである彼女は忙しなく動いている時間だ。
けれど彼女―由羽は、先日ここにきたばかりのため、仕事は雑用がほとんどで休みも多かった。
だから彼女は余りすぎる休みを惰眠でも貪りながら過ごそうと腰掛けていたのだが・・。
「・・ラピスラズリ?・・・って、十二月の誕生石の?確か青色で綺麗な石ですよね」
並ぶ顔は一人を除いて真剣そのもので、由羽は幾らか緊張しながら答える。
書庫で呼ばれてから何の説明も受けないまま問われた彼女は、まだよく状況が掴めていなかった。
どころか、昼下がりの忙しいこの時間にベテランの翼達が眼前に座っていることすら、よくわからない。
仕事を中断してまで集ったのだ、何か大切なことだとはわかる。だが・・。
そうまでして聞く質問かどうかも・・よくわからないんだよね・・。
記憶を巡らせながら、昔そんな石を母親に見せられた気がして答えると、暫しの沈黙が降りた。
そのうち朱來が青色の石に見覚えはないのかと言い出すと、その隣にいた深紅の双眸の男がかぶりを振る。
端にいた緑青色の双眸の男は眠たそうに目を擦りながらその様子を傍観していた。
本当に覚えが無いわけ?」
二階まで伸びた大樹の枝に一羽の鳥がちょこんと座っていて、思わず顔が緩む。
端の男はいつの間に寝たのか、静かな寝息を立てている。
その石がどんなものなのかよく分からないのよ。詳しく教えてくれる?」
日本ではその色を瑠璃とも言ったりするんですけど・・えと。」
石のことについて教えてと言われても自分はそんなに詳しい方ではないから色のことぐらいしか分からないのだ。
つまるところ、由羽が話せる”詳しく”はこれぐらいなものなわけで。
朱來の先程からの必死さに素直に「分からない」とは言えず、言葉を濁したのだった。
ただ、そうね・・そんな色の石をここで見た覚えがないんだけど・・由羽はある?」
透き通るような薄い青色はこの神殿の装飾の至る所に使われているが、藍色のようなものは・・どうだろう。
まして、長年住んでいる朱來が知らないのなら、ここに来て日も浅い自分が知っているとも思えない。
かぶりを振ると、目の前にいた男も肩を竦めていた。
どういうわけだか、こいつがその石を失くしたらしいのよ。それで今探しているんだけど・・。」
朱來によるとその翼は一度怒らすと手に負えないそうで、だからこうして必死に探しているという。
ならその人も同じことを言われたのかと寝ている男を見ながら聞けば、どうやらそうではないらしい。
結局手がかりも何も掴めていない状況では、この男が盾になることもそう遠い未来の話ではない。
けれどどんなに頭を働かせても、件の石のことは分からなかった。
すると、窓の外からバサバサバサッと鳥が勢いよく飛び立つ音がした。
大方、先程一休みしていた鳥が動き出したのだろう。
再び正面を向き直った由羽は、しかし次の瞬間には窓へと駆け出していた。
ガタンッと勢いよく椅子から立ち上がった由羽を見て、朱來は慌ててその後を追った。
しかし後方から聞こえた声に、朱來は由羽と同様、鳥の行方を追うこととなった。
一人残った橙哉は、そのまま夜まで誰の邪魔も受けずに寝こけていたという。
「・・というわけで、鳥を捕まえてきたぞ。」
「・・大分傷ついているようですが・・・?」
・・あとはそいつが勝手に暴れて傷ついただけだ。そこまでは知らん」
「・・何してるんだ、お前。」
「自分の瞳の色の名前ぐらい覚えておこうと思って。書庫から拝借してきたの」
やたらと分厚そうな本には所々しおりが入っていて、持ち主に大分気に入られているようだった。
書かれた文章に一々文句をつける朱來の声を耳の片隅で聞きながら、青灯は眠りについたのだった。
1500hit 翼の一片◇番外編〜瑠璃の鳥〜
2008.03.08 硝子の唄人 華青