パシャッ、パシャッ・・

朝の眩しい光が射す水面の上で、何かが音を立てて跳ねていた。

パシャッ、パシャッ・・

まだ半分寝起きの頭で、内心苛つきながら前方を見やる。
全く、朝っぱらから何をやっているんだ・・・。
男は次第に音のする方向へと近づいていった。

パシャッ、パシャッ・・

朝の微風で背中の翼をはためかせながら、はぁ、と溜め息をついた。

「・・何をやってるんだ、お前。」

問われた相手は一瞬此方を見たものの、すぐに向き直る。

「関係ないでしょ。水浴びよ、水浴び」

腰まである長い髪を風になびかせ、女は言った。

「そういうのは夜にやれよ・・」
「だって朝の方が気持ち良いじゃない」

男はもう一度溜め息をついた。
寝不足を娯楽のせいで潰されたら堪らない。
目が覚めるかと、湖面に顔をつけてみるがあまり変わらなかった。
・・眠い・・・。

「何、また寝不足なの?」

水浴びをしながら男の一連の作業を見ていた女が、呆れ声で尋ねた。

「昨日の突風のせいでかけらが10人一気に落ちたんだよ・・」

どうしてそこまで鈍くさいのか、段々腹が立ってきた。
本来自分は天候の調整とか後輩指導といった、大して体力も頭も使わない簡単な仕事しか与えられていないはずなのに。
最近はほとんどを地上で過ごし、かけらを捜している。
以前にも増して落ちるかけらが増えている。
・・というか、日に日にその数が上がっているのは気のせいだろうか。

「10人!・・それってちょっと異常じゃない?」

元々かけらは羽も短く少なく、鈍いと言われ続けてきた。
うっかり地上に落ちることなど日常茶飯事で、珍しくなどない。
けれどある時を境に、かけらは尋常でない頻度と数で落ちるようになった。
いくら毎日大勢の翼が捜しに行っても、戻ってくる数は落ちた数の半分にも満たなくなった。
それでも前はまだ数が少なかったから対処は出来た。
しかし今はもう、どうやっても追いつかない。
このままでは本当に世界が駄目になってしまう・・

「・・どうしてかけらはこんなに落ちるようになったんだ?」

以前までなら誰もがこの質問に対し、「鈍くさいから」と答えた。
しかしこんなにも落ちるほど、かけらは鈍くもないし馬鹿でもない。
世界が危機的状況の中、気をつける意識だって大きくなったはずだ。

―・・なのに日を追うごとに状況は悪化している。
どう考えてもおかしい。
何か別の力がはたらいてるとしか思えない。
でもそれは一体何なのか?
そういったものは一切分からなかった。
だからこうやって毎日かけらを捜しにいくしか方法がなかった。
根本的な原因が分からない以上、それしかかけらを助けることは出来ない。
でも以前と変わらないやり方のままでは何の解決にも・・・
男は湖の淵に座り込んで考えた。
先程まで水浴びをしていた女はそれを見てふぅ、と呟いた。

「・・人の話、全く聞いてないわねこいつ・・・。」

バシャッっと湖から出て、男の隣に足を並べる。
濡れた羽と体を大雑把にタオルで拭き、その場に座った。

「青灯、そのままいると頭が焼けるわよ」

まだ日は昇りきっていなかったが、日差しは十分強かった。
このまましばらく此処にいたら、暑い太陽が照りつけるだろう。
その言葉に、ようやく我に返った男ははっとした。

「・・あれ、お前水浴びしてたんじゃ・・」

隣に女がいることに驚きながら問う。

「目の前で自問自答してる奴を見ながら浴びたって、全然気持ち良くないもの」

縛った髪を解きながら女は言った。

「悪かったな・・。」
「いいわよ別に。それより青灯、かけらのこと分かった?」

少し真剣な眼差しで相手に尋ねた。
それは先程まで自分が考えていたものと同じだった。

「いや・・。でも多分、これはかけらだけのせいじゃない」

かけらの不注意だけではこんな事態にならない。
確かに天使や翼に比べればかけらは危なっかしい。
けれど彼らだって自然に選ばれた者の一つなのだ。
それが姿が似ている人間とは違う一つの理由である。
だから今のこれは、別の力のせいだとしか思えなかった。

「そうよねーだって色々有り得ないし、かけらはそこまでじゃない」

女のその言葉に、少し驚いた。

「へぇ〜お前、前まではかけらを見下してたくせに」

何よ、と相手は頬を膨らませた。

「接してみて分かったのよ。かけらだって一生懸命だってこと」

多分彼女が言う『かけら』というのは、半年前出会ったかけらのことなんだろうなと思った。
あれから、朱來は少し変わった気がする。
以前はかけらを思いきり卑下して、同じ空の者と認めなかった。
けれど今では自らかけらに接したり、地上に捜しに行っている。

「だから私もあんたの意見には賛成!でも問題はその”何か”なのよね・・」

その存在がはっきりしない限り、どうすることも出来ない。
もしそのまま分からなかったら、世界は崩壊するだろう。
地上が滅びれば、空も崩れる。
世界は両界の均衡で成り立っているのだ。
どちらかのバランスが崩れれば、もう一方も無事ではない。
だからこそ、これだけは避けなければならないことだった。

「・・とりあえず、今日の仕事をするかな。多分昨日よりかけら落ちてるしよ」

はぁ、と溜め息をつく相手を見て思わず吹き出してしまった。

「・・何がおかしい」
「だっ・・だってあんた、同じなんだもん」

あはは、と笑い続ける朱來に少し戸惑いながら

「?同じって・・何がだ?」

聞き返すと、相手は未だ笑っている。

「あたしとよ。あんただって前はそんな『かけら』のために一生懸命じゃなかったでしょ?」

突然なことを言われて、一瞬言葉に詰まった。
相手はなおも話を続ける。

「捜しに行くのだって躊躇ってたじゃない。なんだっけ、あの子に会ってからよ?そんな風になったの」

朱來の笑い声が、遠くの方で響いていた。

≪あの子≫・・それは、誰のことだったか。
記憶の片隅からそれを探し出そうとすると、何故か心が痛んだ。 
≪あの子≫・・・それは自分にとってどんな存在だったのだろう?



「・・てな感じ。わかった?」
「んー・・さっぱりだけど、いいや。」
「いや、よくないじゃんっ」

え〜もういいよ―、と華衣吏はうな垂れた。
目の前の机にはここ三日分の授業ノート(智の)と教科書、それに参考書などが散らばっている。
結局あれから丸三日間休んだ華衣吏は、見舞いに来た智に勉強を教えてもらう破目になった。

―・・体調悪いんじゃないならペース戻さないとね。
そう彼女が言ってから一時間後の現在。
華衣吏の集中力はプチッと切れてしまった。
実際の所、毎晩夢にうなされて体はずっとだるかった。

・・本当は呑気に勉強なんかやってる場合じゃないんだよね・・
今こうしている時も地上は不安定になっていっている。
事情を知りながら、助けになることも知りながら、けれど私はどうすることも出来ない・・・。
そうやって考えをめぐらせては考えて、それを繰り返すうちに朝になる・・
というのがここ最近の華衣吏の状態だった。
今なら家族のために、そして地上のために空へ行こうと確実に思えるのに。
・・って、今さら遅いんだけどさ・・・。

「もういいじゃん。勉強なんかどうでも」
「受験はどうするの?・・勉強は嫌だけど仕方ないじゃん」

全く、どうしてこんな不真面目な子になっちゃったのかしら・・とまるで母親のように智はブツブツ言っている。
確かに私は以前に比べて勉強しなくなった気がする。
ま、元々やる方じゃなかったんだけど。
でも最近は、何をやろうにも体がだるくて、やる気どころかする気にもなれなかった。
それでも何とか勉強がついていけるのは智のおかげなんだと思う。
彼女はいつだって私の側にいてくれた。
日に日にやる気を失くしていく私を見ても、突き放すことはしなかった。
智がいてくれて本当に良かった・・最近特にそう思う。

・・だからこそ、やっぱり私は行かなくちゃいけない。
私のためにしてくれたことを、今度は私が返さなくちゃいけないんだ。
このまま、何もしないでいるなんて絶対に嫌だ。
大切な人を守るために私が出来ることをやろう。
華衣吏は、固く心に決めた。




「朱來〜!よかった、ここにいたんだ・・」

名前を呼ばれそちらを振り向くと、前方から人が走ってくる。
手には何やら赤い本を携えていた。

「どうかしたの?・・てかその本は何・・」

自分の隣まで来ると、相手は息を整えながら顔を上げた。

「今日下に行くんでしょ?だったらコレ、念のため持ってって。怪しいから」
「怪しい?」

言っている意味が分からなくて聞き返すと、相手はコクコクと頷いた。

「昨日の事は聞いたでしょ?今地上は悪化の一途を辿ってる。私たちだってただじゃ済まないと思うんだ・・」

だからコレ、と相手は手に持っていた本を差し出した。

「何が起こるか分からないから、もしものために持ってって!」
「・・いやだからコレ一体な・・」

差し出された本を見ると、その表紙には黒文字で一文。
なるほど・・と朱來はようやく納得した。

「コレが出るほど、地上は危険なわけね・・・。」

正直そこまで深刻に考えていなかっただけに、改めて思う。
今この時、地上では何の変哲も無くひっそりと影が忍び寄っているのだ。
そして最悪なのは、地上に住まう者は誰もそれに気がついていないということ。
随分呑気なもんよねぇ・・と思わず呆れてしまう。
空といい、地上といい。
どっちも平和な生き物しか住んでないわね・・全く。
しかしだからこそこの地球は美しいのだと思う。
・・だから、絶対に壊したりなんかさせるもんですか。

「そう、だからいざとなったら使ってね?危なくなったらすぐに、だよ??」

目の前で一生懸命に説明する少女を見ると、自然と笑顔がこぼれてしまう。
いつも自分のことより人のこと優先で。
空の雲に足を捕られては転んだり、無謀なことに挑戦してみたり。
以前の自分だったら鼻で笑っていたような出来事が、今では愛しいとさえ思える。

「そ?じゃあ遠慮なく使わせてもらうわ」

半分からかったつもりで言っても、相手は素直に、そうして!と答えてくる。
その純粋さに自分は随分救われたと思う。
知らないでいたらきっと後悔していた。

あんたといると、自分のやるべきものが見えてくるわ。
朱來のその言葉に由羽は小首を傾げた。

「どういうこと?」
「さあね。・・っととっ」

そのまま行こうとした朱來は、しかし再び戻った。

「由羽、一緒に来ない?あんた此処に来てから一度も下に行ってないでしょ」

突然の誘いに由羽は目を瞬かせた。

「?・・私も一緒に―・・?」

「あ、嫌なら別にいいのよ。その方が私は楽だし」

その言葉にムッとして由羽は聞き返した。

「楽って何!あたしは足手まといになんかならないよ!!」

自分の身ぐらい自分で守れるんだからっ、と相手は必死になって抗議していた。

「ならいいじゃない。たまには休息も必要でしょ?」

朱來は由羽も含めかけら達がほとんど寝ずに仕事をしているのを知っていた。
かけらがいないに等しい空では、それでも地上を保つためにしなければならないことが山積みだった。
一人で何十人分もの仕事をこなすだけで辛いのに、日に日にかけらの数は減っていくばかりで休む暇も無い。
翼が手伝おうにも彼らの能力はほぼ対照のため、かえって彼らは足手まといになるだけだった。
それなら、たまには仕事を忘れ休むのもいいのではないかと、朱來なりに気を遣った提案だった。

「でも・・今は一人でも人力が惜しい時なのに・・・」

由羽は躊躇いながら、思考を巡らした。
朱來は、はぁ、と溜め息をついた。

「下に行ってかけらを連れて来るんだから変わらないわよ!あたしはあんたのその今にも倒れそうな顔の方が心配だわっ」

そう言って、彼女は由羽の手をグイグイと引っ張り、下界へと繋がる門に向かって飛んで行った。
由羽が途中で何度も抗議をしたが、その意志は変わらなかった。

空は澄み切り、春にしては暖かすぎる天気だった。




「青灯」

後ろから呼び止められ、振り向く。
相手は不機嫌そうに腰に手を当てていた。

「・・どうかしたんですか、リファ様」

自分より幾分小さい相手に、軽く会釈する。
色白の肌に、真っ白な翼。
翡翠色の双眸を持つその人は、自分の上司でありこの世界で最高位の種族・天使。

なんでこんな日に・・。
青灯はげんなりした。
この人が来る日は良くないことが起きる・・・。

「何をそんな嫌そうな顔してる?」

背は明らかに自分の方が上なのに、頭の上から怒鳴られているように感じるのは気のせいだろうか。
威圧感たっぷりに相手は話を続ける。

「お前、今日も下に行くだろ?」
「は・・まぁ行きますけど」

ぱさっ、と相手は白い紙を手渡した。

「?・・これは何ですか?」
「お守り。・・のようなものだ」

青灯は紙に書かれた一文を見た。

「!・・もうコレを・・。」
「念のためだ。『かけら』達がそう告げた。・・まぁ、そこまではやばくないはずだが・・
あいつらは心配性だからな」

青灯は紙をたたんで帯に縛った。

「分かってはいると思うが・・それはかけらが一枚一枚丁寧に創りあげたモノだ」

青灯は相手が何を言おうとしているかは分かっていた。

「もちろんです・・極力使わないようにします」

相手は安堵したように胸を撫で下ろした。

「とは言っても、本当に危険になったら迷わず使えよ?」

どっちなんだか・・と胸中でぼやきながら頷いた。

「それでは・・行って参ります」

翼をバサッと広げ、相手に背を向けると

「青灯!」

もう一度呼ばれた。

「今日も見つけたかけらは必ず空へ連れて来いよ・・あんなことは今の状況では命取りになる」
「?・・そりゃ、もちろんでしょ。それでは・・」

不思議そうな顔で青灯は飛び降りていった。
リファはその光景を見て、さらに不思議そうな顔をした。

「何であんな顔をしたんだ・・?」

―まるで他人事のように。

真面目な青灯がたった一度だけ掟を破った事件。
周りも自分も信用していただけにショックは大きく、
罪こそ軽かったが、非難や罵声を浴び、青灯の心に傷を残した。
以来、青灯はその話は一切しなくなり二度とそのような過ちを犯さまいと仕事に励んだ。

―『人間』に必要以上に肩入れしてはいけない。たとえそれが元は『かけら』であったとしても・・―
古くから天界に伝わる掟の一つだった。
青灯は半年ほど前その掟を破ってしまった。
元々相手を気遣う性格ではあったから、同じ事を繰り返さなければそこまで気に病むことはないと言った。
それでもしばらく青灯は笑顔を見せることがなかった。
真面目だった分、罪を犯した自分を許せなかったのだろう。
けれど時が経つにつれ、青灯はまた相手に肩入れして願いを叶えようとした。
しかし今度ばかりは上も黙ってはいない。
それだけは避けようと何度も何度も止めた。

・・なのにさっきの返事と顔。
そこまでして助けようとしてきた青灯が、さも自分はそんなことするはずがないと言わんばかりの口調だった。

「ただ疲れがたまってるだけなのか・・?」

それだけならいいが・・・。
何故か胸のモヤモヤは完全に消えることはなかった。



「ふーっ・・しょうがない、明日は学校行くか」

自分の意志は変わらないし、多分受験なんてやらないだろう。
空に行くことはないだろうし、もう一度呼ばれることもない。
・・けれど。
だからって何もしないで見過ごすなんてイヤ!
父さんの調べていたこの地球について、
地上でしかできない、地上を救う方法を見つけよう。
それがきっと今私が二人にしてあげられる償いだから。
でもそのためには、まず学校に行かないとね。
完全に調査に入ったら学校なんか行っていられないだろう。
けれどそれでは今まで勉強を教えてくれた智に悪い。
一歩ずつでいいから、お返しをしていこう。

「それがきっと、今私ができることだよね」

飾られた写真立てにそう呟き、その夜は寝た。
今夜からはもうあの夢を見ないような気がした。

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