サワサワと少しだけ開いた窓から風が入ってくる。
今こんな風に気持ちのいい風が感じられるのは、あの時大きな犠牲を払ったからだ。
日本にいる人のほとんどがそんなこと、知りもしないけど・・。
「あぁ〜何か暇だな・・散歩でもしてこようかな」
適当にその辺にあった上着を着て、バタバタと外に出る。
家に一人でいると、駄目だ。
見えない影に掴まれてるようで落ち着かない。
「もうあれから半年も経ったんだ・・・」
のどかな春の風景を見ながら、一人呟く。
あの時・・私たち家族から二人消えた日から・・・。
「こら華衣、一時間目の授業ぐらいまともに受けなさい」
半分寝ぼけ眼の私に、智が次の授業の教科書をバサバサと手渡した。
「起きてたよ?・・えーと、英語だったじゃん・・」
ほぼ勘で言った私に、智はアホ、と呆れ返っていた。
「それは次、さっきは数学だよ。なんか前にも増して不真面目になってない?」
そりゃ真面目さんの智に比べたら誰でも不真面目に見えるよ、というのは胸中で呟いて首を傾げた。
「前と変わんないよ。そんなにうなされないし。」
「本当に?・・家で一人で辛くない?」
私の家の事情を知っているのは智ぐらい。
とは言っても、詳しい所は誰にも教えてないけれど。
「大丈夫。昨日だって平気だったよ?」
相変わらず智の心配そうな顔はなくならなかったけど、それ以上は何も言わなかった。
これ以上誰かといると、その人に全てぶちまけたくなって。
それだけはしたくなかった。
・・もう誰も、悲しむ顔なんて見たくない。
今年は本当に暑いねぇ・・いよいよ海に呑まれるのかしら・・・。
そんなことを母さんが真顔で言ったのは去年の夏。
温暖化が日を増すごとに悪化しているのを、誰もが身をもって感じていたあの頃。
一向に気温は下がらず、むしろ徐々に上がっていった。
六月の梅雨から、雨は二ヶ月間一滴も降らなかった。
作物が育たないということも当然だったが、飲み水が各地で不足し、海水を飲み続けた人が死んでいくのが人伝いに聞こえた。
外に居ようと中に居ようと、暑さは凌げない。
熱せられた体は異臭を放ち、空気も淀んだ。
次第に海水も熱湯と化し、体を冷やそうと入った人々も命を落としていった。
自分の周りに広がるのは死骸ばかりだった。
明日の希望も持てず、人々は衰退していった。
誰もが自分の死を悟っていた。
・・そんなある日、ポタリと顔に何かが落ちた。
それは冷たい、久々の感覚のものだった。
「雨だっ・・雨だぞ――――!!」
今まで何処にそんな力を溜めていたのか、人々は大きな歓喜を上げた。
降り始めた雨はそれから三日間も降り続いた。
山も、川も、大地も、海も。
彼らは喜びの涙を流した。
雨は荒みきった心まで洗った。
彼らは潤いを与えられ、希望を取り戻した。
それから半年後の今。
この世界は平和で、穏やかで。
無事な世界を新たに築いている。
・・平和には犠牲がつきものなんだって、華衣吏。
お父さんと樹はこの国の犠牲になったんだって・・
その事件の後、見舞いに行った母に言われた言葉。
今でも母さんは、精神が保てなくて入院生活を送っている。
「犠牲が必要な平和なんて、要らない・・・」
そう私が言った時の母の顔はそれまで見たことが無いほど、悲しそうな顔だったのを覚えている。
次の日は学校を休んだ。
体がだるいし、あの夢をまた見たからだ。
何でこんなにずっと出てくるのだろう。
まるで私を責めているようだ・・
「・・・てか、責めてるんだよね多分・・」
異常気象になって多くの生物が死んだのも
そのせいで父さんとお姉ちゃんが死んだのも
いつまでも母さんが歩くことすら儘ならないのも。
「全部私のせいだ・・。」
私があの時、行かなかったから。
ねぇ、だから責めてるんでしょう?
だから苦しめてるんでしょう?
自分のことしか考えなかった私を恨んで、今のこんな情けない姿を見て嘲笑ってるんでしょう。
こんなこと、望んでなんかいなかった。
想像などしていなかった。
私はただ、皆で一緒に暮らすことだけを望んでいた。
自分のせいで、結局は壊してしまったけれど。
夢は、私の罪を忘れさせないためなんだろう。
「たくさんの犠牲を出した私は・・人としても、かけらとしても失格だ・・・。」
―・・おまえの力が必要なんだ。
あれはそう、この現象の少し前。
夕暮れ時の川辺に、その天使はいた。
最初は目を疑った。
背中に翼が生えた人間がこの世にいるわけない。
背中しか見えなかったものの、そこから発せられるオーラみたいなものは人間とは何かが違う気がした。
もしかしたらただの変人か?
半信半疑で、取り敢えず声をかけてみた。
「あの、そこで何してるの?変装か何か?」
今考えれば、あんなこと普通の人間に言ってたらものすごく失礼だ。
振り向いたその顔は、変人のする顔ではなかった。
見た目はアジア系なのに、瞳は綺麗な深紅だった。
「・・いや、これは普段着だ」
なんとも真面目な返答だった。
しかし、私はイマイチ目の前の人物が信用できなかった。
背中の翼。これだけは、有り得ない。
「ふー・・じゃあその背中のも?それも普段着だったら変態ね。」
そう言いながらも、私はその翼がレプリカには見えなかった。
近くで見るとそれは、本物の羽のように白い毛で出来ていたのだ。
でも・・。
人間は空なんか飛べない。
明らかにこの人はおかしい。
必死に頭の中で抗議していた。
そうでもしていないと、自分がおかしくなりそうだったから。
「・・何を言っているんだ・・?常に羽はあるものだろう。」
いよいよ変人だ、と頭の中で呟いた。
「そっちこそ何を言ってるの?普通の人間は羽なんか生えてないんだから!」
すると変人は、ぽかんとしてしまった。
まさか自分がおかしいことに今気づいたの?
ところが相手はそういうわけではなかったらしい。
次に放ったのは、信じられない言葉だった。
「・・人間は無いのは知ってるが・・それは俺には関係ないだろ」
自分は翼なんだから、と。
なんで人間が関係ないって・・・
というか、翼って何よ・・?
「意味不明なこと言わないでよ!変人ての、そんなに認めたくないの?」
噛みそうな勢いで言った私に、相手がしたことは。
「あー・・おまえも記憶失くした『かけら』なのか。こないだ朱來が言ってた由羽ってのも同じだったな・・
確かに話すのは面倒だな・・すげー疑いの眼だしよ」
かけら、というのと次々と出てくる名前には全く聞き覚えが無かったが、最後は自分だというのは分かった。
「疑うに決まってる。ただの変人じゃない。」
変人、変人と暴言ばかり吐いている私に文句を言う代わりに相手は隣に座った。
「まぁ・・信じられないのは分かるが、聞くだけ聞け。滅多に会えるもんじゃないからよ。」
おまえも座れ、と言った相手に私は
「そりゃ変人なんか滅多に会うことなんかない。だからってなんで私が従わなきゃいけないの?」
そう言って帰ろうとすると、腕を思いきり掴まれた。
「!?いたっ何すんのよ、変人!!」
あまり相手を馬鹿にしすぎて逆切れされたの・・?
そんな後悔よりも、先ずは自分の身の安全だ・・!
必死に抵抗した私の足はどれも相手に当たらなかった。
・・というか、掴まれた右腕はとうに解放されていて後から出した足たちは草原を蹴っただけだった。
「悪かったよ・・普段あんま女と接しないから力入れすぎた。・・逃げるおまえも悪い」
意外に素直に謝られたが、最後は聞き捨てならない。
「変人なんかと一緒にいたら何されるか分からないでしょ。とにかく、私は帰るから。」
再び歩き出そうとしたした私に、変人は問いかけてきた。
「・・おまえ、俺の背中に羽が見えただろ」
一瞬だけ耳を貸したが、てくてくと歩く。
「アレが見えるのが証拠だよ」
ピタッと、足を止めた。
証拠って言った?何の証拠なのよ・・
翼が見えるのは何か変なことなの?
追求しようとすると、今度は逆に相手が反対方向へ歩き出していた。
言い逃げするつもりなの、あの変人!
「聞くから教えてよ、何なのアレは!」
次の瞬間目の前の相手は此方を振り向いた。
「じゃあそこに座ってろ。そっち行くから」
言ってしまってから、もしかしたらこれが手口なのかとさらに後悔したが、そんな心配は吹き飛んだ。
相手から告げられたのは、意味のわからないものだったからだ。
「俺は『翼』だ。天使に仕えてる」
「・・・。はぁ?」
これは自己紹介なのかそれとも童話の朗読なのか。
「天使ぐらい、この地上でも伝わってるだろ?」
「いや、そりゃ天使は知ってるけどあれは空想で・・」
教会とかでそういう絵を見た気がするけど・・。
「空想じゃない、天使は現実にいるんだ」
まるで小さい子が言うようなことを同い年ぐらいの男が真剣な顔で言っている。
・・もしや変人じゃなくて、夢見がちさん・・・?
「・・人間に染まったおまえには信じられないだろうが。」
「?人間に染まったって何・・あたしは人間じゃない。」
何を言い出すんだ、この男は。
「だからそれは記憶を失くしてるだけなんだ。おまえは『かけら』だ。どう見ても」
何だかイライラしてきた。意味が分からない。
「だからそれ、何なのよ?ツバサとかカケラとかっあたしが見たあんたの羽と何か関係あるのっ?」
全部教えてよ!と怒声を上げながら相手を睨んだ。
じゃあ、一つ一つ言ってくから、聞けよ?
それから辺りが真っ暗になるまで話した。
話したというより、相手が言ったことに反発する私の質問に全部答えてくれる・・というのの繰り返しだったんだけど。
空には『天使』と『翼』と『かけら』という者がいる。
人間は神だ何だと言うけれど、実際はいない。
いや、いないんじゃなくて、正しくは神は自然そのものだ。
だから地上の生物も天界の生物も自然には抗えない。
先ず天使というのは自然を上手くコントロールする。
姿は人間の想像図とあまり変わらないな。小さいしよ。
で、そいつらに仕えるのが俺達『翼』。
この背中の羽で空を飛び、空の仕事をする。
そしておまえのような奴を『かけら』という。
かけらは翼より羽が少ないからあまり空を飛べない。
だから地上に一番近い空で地上を守る仕事をする。
・・けどな、とにかく『かけら』は鈍くさい。
うっかり地上に落ちて、さらにそのショックで記憶を失くす。
そうすると、何故か自分を『人間』だと思い込んでよ。
まぁ姿が似てるからしょうがないのか。
それでも最初は少ない人数だったから、暇が出来た時に俺達『翼』が地上に探しに行くだけで済んだ。
けど、日に日にたくさんのかけらが落ちるようになって・・
何しろ地上は空より危なっかしい。
度々争いは起こるわ、天候は崩れるわで『かけら』は必要不可欠だった。
だから今地上の各地でバランスが崩れて、地上は危険だ。
今でも何処かで、何かが起こっている。
ここだって、危ない。
だから俺達『翼』は毎日各地に降りて『かけら』を捜し、空へ送っている。
説得するのが大変なんだけどよ。
「どうして?」
質問し続けた私は、この頃もう疑うことはしなかった。
丁寧に説明する相手を信用し始めたし、納得する節もあったから。
男はその時初めて笑った。
「おまえのように、『かけら』は皆話を信じない。
空にいる時はすごく素直なのに地上にいると人間の性格が移って・・疑いやすくなってる」
だから結構苦労するんだ、本当に。
「まぁ、大体こんな所だ。わかったか?」
「うん・・説明上手だね、えと・・」
名前を言おうとしたけど、そういえば聞いてないことに気づいた。
だがどうやら相手は察したらしい。
「俺は青灯。『翼』は皆名前の最初に色の名が入るんだ」
「そうなんだ・・せいひ・・って呼んでいいのかな。青灯君は説明が上手いよ、だからよく分かった。」
「君とかは別にいらない。それで?えーと・・」
あぁ、と今度は私が意図を察した。
「私は戸隠華衣吏。華衣吏でも華衣でもなんでもいいよ。」
本当は私を華衣って呼ぶのは親しい人だけなんだけど。
青灯には何故か呼ばれてもいいなと思った。
じゃあ華衣な、と言われた時、内心嬉しかった。
「でよ、華衣。おまえは空に来てくれるのか?」
「え・・・」
私は先程までの会話を思い出し、言葉に詰まった。
そうだ、私が行かなきゃ地上はどんどん駄目になってしまう。
私の大切な人たちだって死んでしまうんだ。・・でも・・・。
「ま、今すぐじゃなくてもいいんだ。急に言われたって困るだろう?
一週間後ぐらいにここでまた会おう。返事はその時聞かせてくれればいい」
青灯は笑って言った。
でも私にはその顔を見ていると罪悪感でいっぱいになった。
私はきっと家族や友達を置いてなんていけない。
その時既にどこかにそういう思いがあった気がする。
「じゃあな」
そう言って手を振る青灯に手を振る私の腕は、なんだかとても重く感じた。
一週間考えて考えて、出した答え。
それでもやっぱり言うのは辛かった。
「やっぱりわたし・・行けないよ・・・・・。」
青灯は何度も何度も言ってくれた。
「おまえの力が必要なんだよ・・」
この地上に住んでたら、きっと聞けない言葉。
いつもどこかで誰かが自分を必要としてくれることを望んでいたのに。
どうしても、首を縦に振ることは出来なかった。
目からたくさん涙が流れていることも知っていた。
だけどそれは、止まらなかった。
そして私は最後まで、行く、と言わなかった。
青灯は最後に、笑って言った。
「自分の守りたいもの、大切にしろよ」
・・それっきり、彼の姿を見なかった。
そして半ば忘れかけていた時に、アレは起こった。
異常なまでの気温上昇。
地上は確実に崩壊に向かっていたのだ。
私があの時に行っていれば、変わっていたかもしれない。
少なくとも、父さんやお姉ちゃんは生きていただろう。
「私は・・もう地上のために何も出来ないのかな・・・」
いつの間にか流れ出た涙を拭い、私は静かに夜を過ごした。